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總是會提到,川端康成在1968年獲得諾貝爾文學獎時,發表的得獎演說之中,引用《專應口傳》。

那麼,這一段的原文究竟為何?每次聽到的時候,都會興起一陣好奇之心。所以就把它找了出來。

 

『...日本の花道、生け花の名家の池坊専応も、その「口伝」に「ただ小水尺樹をもって、江山数程の勝概(おもむき)を現はし、暫時刻のあひだに、千変万化の佳興をもよほす。あたかも仙家の妙術と言ひつべし」と言っています。

...池坊専応は「野山水辺をおのづからなる姿」(「口伝」)を、自分の流派の新しい花の心として、破れた花器、枯れた枝にも「花」があり、そこに花によるさとりがあるとしました。』——《美しい日本の私—その序説—川端康成》より

 

以下是我的亂譯

...日本的花道,插花名家池坊專應,在他的「口傳」中說「僅以小水尺樹便能呈現江山數程之勝概,暫時頃刻之間聚集千變萬化之佳境。真可謂仙家之妙術。

...池坊專應以「野山水邊自然而成之姿」(「口傳」)作為自己流派的新的花之心,在破損的花器,枯枝之中亦有「花」,並且能自花中悟道。

美しい日本の私ーその序説ー

春は花夏ほととぎす秋は月
冬雪さえて冷しかりけり

道元禅師の「本来ノ面目」と題するこの歌と、

雲を出でて我にともなふ冬の月
風や身にしむ雪や冷めたき

明恵上人のこの歌とを、私は揮毫をもとめられた折りに書くことがあります。
明恵のこの歌には、歌物語と言えるほどの長く詳しい詞書きがあって、歌のこころを明らかにしています。

元仁元年十二月十二日の夜、天くもり月くらきに花宮殿に入りて坐禅す。
やうやく中夜にいたりて、出観の後、峰の房を出でて下房へ帰る時、月雲間より出でて、光り雪にかがやく。
狼の谷に吼ゆるも、月を友として、いと恐ろしからず。
下房に入りて後、また立ち出でたれば、月また曇りにけり。
かくしつつ後夜の鐘の音聞ゆれば、また峰の房へのぼるに、月もまた雲より出でて道を送る。
峰にいたりて禅堂に入らんとする時、月また雲を追ひ来て、向ふの峰にかくれなんとするよそほひ、人しれず月の我にともなふかと見ゆれば、この歌。

これにつづけて、

山の端に傾ぶくを見おきて峰の禅堂にいたる時

山の端にわれも入りなむ月も入れ
夜な夜なごとにまた友とせむ

そして、明恵は禅堂に夜通しこもっていたか、あるいは夜明け前にまた禅堂に入ったかして、

禅観のひまに眼を開けば、有明けの月の光り、窓の前にさしたり。
我身は暗きところにて見やりたれば、澄める心、月の光りに紛るる心地すれば、

隈もなく澄める心の輝けば
我が光りとや月思ふらむ

西行を桜の詩人ということがあるのに対して、明恵を「月の歌人」と呼ぶ人もあるほどで、

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかやあかあかあかあかや月

と、ただ感動の声をそのまま連ねた、無邪気な歌があったりしますが、夜半から暁までの「冬の月」の三首にしても、「歌を詠むとも実に歌とも思はず」(西行の言)の趣きで、素直、純真、月に話しかける言葉そのままの三十一文字で、いわゆる「月を友とする」よりも月に親しく、月を見る我が月になり、我に見られる月が我になり、自然に没入、自然と合一しています。

暁前の暗い禅堂に坐って思索する僧の「澄める心」の光りを、有明けの月は月自身の光りと思うだろうという風であります。

「我にともなふ冬の月」の歌も、長い詞書きに明らかのように、明恵が山の禅堂に入って宗教、哲学の思索をする心と、月が微妙に相応じ相交わるのを歌っているのですが、私がこれを借りて揮毫しますのは、まことに心やさしい、思いやりの歌とも受け取れるからであります。

雲に入ったり雲を出たりして、禅堂に行き帰りする我の足もとを明るくしてくれ、狼の吼え声もこわいと感じさせないでくれる「冬の月」よ、風が身にしみないか、雪が冷めたくないか。

自然、そして人間にたいする、あたたかく、深い、こまやかな思いやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌として、私はこれを人に書いてあげています。

そのボッティチェリの研究が世界に知られ、古今東西の美術に博識の矢代幸雄博士も「日本美術の特質」の一つを「雪月花の時、最も友を思う。」という詩語に約められるとしています。

雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季折り折りの美に、自分が触れ目覚める時、美にめぐりあう幸いを得た時には、親しい友が切に思われ、このよろこびを共にしたいと願う。

美の感動が人なつかしい思いやりを強く誘い出すのです。
この「友」は、広く「人間」ともとれましょう。

また「雪、月、花」という四季の移りの折り折りの美を現わす言葉は、日本においては山川草木、森羅万象、自然のすべて、そして人間感情をも含めての、美を現わす言葉とするのが伝統なのであります。
そして日本の茶道も、「雪月花の時、最も友を思う」のがその根本の心で、茶会はその「感会」、よい時によい友だちが集うよい会なのであります。

ちなみに、私の小説「千羽鶴」は、日本の茶の心と形の美しさを書いたと読まれるのは誤りで、今の世間に俗悪となった茶、それに疑いと警めを向けた、むしろ否定の作品なのです。

春は花夏ほととぎす秋は月
冬雪さえて冷しかりけり

この道元の歌も四季の美の歌で、古来の日本人が春、夏、秋、冬に第一に愛でる自然の景物の代表を、ただ四つ無造作にならべただけの、月並み常套、平凡、この上ないと思えば思え、歌になっていない歌と言えば言えます。
しかし、別の古人の似た歌の一つ、僧良寛の辞世、

形見とて何か残さん春は花
山ほととぎす秋はもみぢ葉

これも道元の歌と同じように、ありきたりの事柄とありふれた言葉を、ためらいもなく、と言うよりも、ことさらもとめて、連ねて重ねるうちに、日本の真髄を伝えたのであります。まして、良寛の歌は辞世です。

霞立つ永き春日に子供らと
手毬つきつつこの日暮らしつ

風は清し月はさやけしいざ共に
踊り明かさむ老いの名残りに

世の中にまじらぬとにはあらねども
ひとり遊びぞ我はまされる

これらの歌のような心と暮らし、草の庵に住み、粗衣をまとい、野道をさまよい歩いては子供と遊び、農夫と語り、信教と文学との深さをむずかしい話にはしないで、「和顔愛語」の無垢な言行とし、しかも詩歌と書風と共に、江戸後期、十八世紀の終りから十九世紀の始め、日本の近世の俗習を超脱、古代の高雅に通達して、現代の日本でもその書と詩歌をはなはだ貴ばれている良寛、その人の辞世が、自分は形見に残すものはなにも持たぬし、なにも残せるとは思わぬが、自分の死後も自然はなお美しい、これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだろう、という歌であったのです。

日本古来の心情がこもっているとともに、良寛の宗教の心も聞える歌です。

いついつと待ちにし人は来りけり
今は相見てなにか思はん

このような愛の歌も良寛にはあって、私の好きな歌ですが、老衰の加わった六十八歳の良寛は、二十九歳の若い尼、貞心とめぐりあって、うるわしい愛にめぐまれます。

永遠の女性にめぐりあえたよろこびの歌とも、待ちわびた愛人が来てくれたよろこびの歌とも取れます。
「今は相見てなにか思はん」が素直に満ちています。

良寛は七十四歳で死にました。
私の小説の「雪国」と同じ雪国の越後、つまり、シベリアから日本海を渡って来る寒風に真向いの、裏日本の北国、今の新潟県に生まれて、生涯をその雪国に過ごしたのでしたが、老い衰えて、死の近いのを知った、そして心がさとりに澄み渡っていた、この詩僧の「末期の眼」には、辞世にある、雪国の自然がなお美しく映ったであろうと思います。

私に「末期の眼」という随筆がありますが、ここでの「末期の眼」という言葉は、芥川竜之介の自殺の遺書から拾ったものでした。
その遺書のなかで、殊に私の心を惹いた言葉です。

「いわゆる生活力という」、「動物力」を「次第に失っているであろう」

の今住んでいるのは氷のように透み渡った、病的な神経の世界である。

(中略)

僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。
ただ自然はこういう僕にはいつもよりも一層美しい。

君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うであろう。
けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである。

一九二七年、芥川は三十五歳で自殺しました。私は「末期の眼」のなかにも「いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。
いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い。」と書いていまして、芥川やまた戦後の太宰治などの自殺を讃美するものでも、共感するものでもありません。

これも若く死んだ友人、日本での前衛画家の一人は、やはり年久しく自殺を思い「死にまさる芸術はないとか、死ぬることは生きることだとかは、口癖のようだったそう」(「末期の眼」)ですが、仏教の寺院に生まれ、仏教の学校を出たこの人の死の見方は、西洋の死の考え方とはちがっていただろうと、私は推察したことでした。
「もの思う人、誰か自殺を思わざる。」でしょうが、そのことで私の胸にある一つは、あの一休禅師が、二度も自殺を企てたと知ったことであります。

ここで一休を「あの」と言いましたのは、童話の頓智和尚として子供たちにも知られ、無奔放な奇行の逸話が広く伝わっているからです。
「童児が膝にのぼって、ひげを撫で、野鳥も一休の手から餌を啄む。」という風で、これは無心の極みのさま、そして親しみやすくやさしい僧のようですが、実はまことに峻厳深念な禅の僧であったのです。

天皇の御子であるとも言われる一休は、六歳で寺に入り、天才少年詩人のひらめきも見せながら、宗教と人生の根本の疑惑に悩み「神あらば我を救え。神なくんば我を湖底に沈めて、魚の腹を肥せ。」と、湖に身を投げようとして引きとめられたことがあります。

また後に、一休の大徳寺の一人の僧が自殺したために、数人の僧が獄につながれた時、一休は責任を感じて「肩の上重く」、山に入って、食を絶ち、死を決したこともあります。

一休はその「詩集」を自分で「狂雲集」と名づけ、狂雲とも号しました。
そして「狂雲集」とその続集には、日本の中世の漢詩、殊に禅僧の詩としては、類いを絶し、おどろきに胆をつぶすほどの恋愛詩、歯房の秘事までをあらわにした艶詩が見えます。
一休は魚を食い、酒を飲み、女色を近づけ、神の戒律、禁制を超越し、それらから自分を解放することによって、そのころの宗教の形骸に反逆し、そのころ戦乱で崩壊の世道人心のなかに、人間の実存、生命の本然の復活、確立を志したのでしょう。

一休のいた京都紫野の大徳寺は、今日も茶道の本山のさまですし、一休の墨蹟も茶室の掛け物として貴ばれています。
私も一休の書を二幅所蔵しています。

その一幅は、「仏界入り易く、魔界入り難し。」と一行書きです。私はこの言葉に惹かれますから、自分でもよくこの言葉を揮毫します。
意味はいろいろに読まれ、またむずかしく考えれば限りがないでしょうが「仏界入り易し」につづけて「魔界入り難し」と言い加えた、その神の一休が私の胸に来ます。

究極は真・善・美を目ざす芸術家にも「魔界入り難し」の願い、恐れの、祈りに通う思いが表にあらわれ、あるいは裏にひそむのは運命の必然でありましょう。
「魔界」なくして「仏界」はありません。そして「魔界」に入る方がむずかしいのです。心弱くてできることではありません。

逢仏殺仏
逢祖殺祖

これはよく知られた禅語ですが、他力本願と自力本願とに仏教の宗派を分けると、勿論自力の禅宗にはこのように激しくきびしい言葉もあるわけです。

他力本願の真宗の親鸞の「善人往生す。いはんや悪人をや。」も、一休の「仏界」「魔界」と通う心もありますが、行きちがう心もあります。

その親鸞も「弟子一人持たず候」と言っています。「祖に逢へば祖を殺し」、「弟子一人持たず」は、また芸術の厳烈な運命でありましょう。
禅宗に偶像崇拝はありません。
禅寺にも仏像はありますけれども、修行の場、坐禅して思索する堂には仏像、仏画はなく、経文の備えもなく、瞑目して、長い時間、無言、不動で座っているのです。
そして、無念無想の境に入るのです。「我」をなくして「無」になるのです。

この「無」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙なのです。
禅でも師に指導され、師と問答して啓発され、神の古典を習学するのは勿論ですが、思索の主はあくまで自己、さとりは自分ひとりの力でひらかねばならないのです。

そして、論理よりも直観です。他からの教えよりも、内に目ざめるさとりです。
真理は、「不立文字」であり、「言外」にあります。維摩居士の「黙如、雷」まで極まりもしましょう。
中国の禅宗の始祖、達磨大師は「面壁九年」と言いまして、洞窟の岩壁に向って九年間座りつづけながら、沈思黙考の果てに、さとりに達したと伝えられています。
禅の坐禅はこの達磨の坐禅から来ています。

問へば言ふ問はねば言はぬ達磨どの
心の内になにかあるべき

また、同じ一休の道歌

心とはいかなるものを言ふならん
墨絵に書きし松風の音

これは東洋画の精神でもあります。
東洋画の空間、余白、省筆も、この墨絵の心でありましょう。
「能画一枝風有声」(金冬心)です。

道元禅師にも「見ずや、竹の声に道を悟り、桃の花に心を明るむ。」との言葉があります。
日本の花道、生け花の名家の池坊専応も、その「口伝」に「ただ小水尺樹をもって、江山数程の勝概(おもむき)を現はし、暫時頃刻のあひだに、千変万化の佳興をもよほす。あたかも仙家の妙術と言ひつべし」と言っています。

日本の庭園もまた大きい自然を象徴するものです。
西洋の庭園が多くは均整に造られるのにくらべて、日本の庭園はたいてい不均整に造られますが、不均整は均整よりも、多くのもの、広いものを象徴出来るからでありましょう。

勿論その不均整は、日本人の繊細微妙な感性によって釣り合いが保たれての上であります。
日本の造園ほど複雑、多趣、綿密、したがってむずかしい造園法はありません。
「枯山水」という、岩や石を組み合わせるだけの法は、その「石組み」によって、そこにない山や川、また大海の波の打ち寄せるさままでを現わします。

その凝縮を極めると、日本の盆栽となり、盆石となります。
「山水」という言葉には、山と水、つまり自然の景色、山水画、つまり風景画、庭園などの意味から、「ものさびたさま」とか、「さびしく、みすぼらしいこと」とかの意味まであります。

しかし「和敬清寂」の茶道が尊ぶ「わび・さび」は、勿論むしろ心の豊かさを蔵してのことですし、極めて狭小、簡素の茶室は、かえって無辺の広さと無限の優麗とを宿しております。

一輪の花は百輪の花よりも花やかさを思わせるのです。
開き切った花を活けてはならぬと、利休も教えていますが、今日の日本の茶でも、茶室の床にはただ一輪の花、しかもつぼみを生けることが多いのであります。

冬ですと、冬の季節の花、たとえば「白玉」とか「侘助」とか名づけられた椿、椿の種類のうちでも花の小さい椿、その白をえらび、ただ一つのつぼみを生けます。
色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持っています。

そして、そのつぼみには必ず露をふくませます。
幾滴かの水で花を濡らしておくのです。
五月、牡丹の花を青磁の花瓶に生けるのは茶の花として最も豪華ですが、その牡丹はやはり白のつぼみ一つ、そしてやはり露をふくませます。花に水のしずくを添えるばかりではなく、花生けもあらかじめ水に濡らしておく焼きものが少くありません。

日本の焼きものの花生けのなかで、最も位が高いとし、また価いも高い、古伊賀は水に濡らして、はじめて目ざめるように、美しい生色を放ちます。
伊賀は強い火度で焼きますが、その焚きもの(燃料)の藁灰や煙が降りかかって花瓶の体に着いたり流れたりで、火度のさがるにしたがって、それが釉薬のようになるのです。

陶工による人工ではなく、窯のなかの自然のわざですから、窯変と言ってもいいような、さまざまな色模様が生まれます。
その伊賀焼きの渋くて、粗くて、強い肌が、水気を含むと、艶な照りを見せます。
花の露とも呼吸を交わします。
茶碗もまた使う前から水にしめしておいて、潤いを帯びさせるのが、茶のたしなみとされています。

池坊専応は「野山水辺をおのづからなる姿」(「口伝」)を、自分の流派の新しい花の心として、破れた花器、枯れた枝にも「花」があり、そこに花によるさとりがあるとしました。
「古人、皆、花を生けて、悟道したるなり。」禅の影響による、日本の美の心のめざめでもあります。

日本の長い内乱の荒廃のなかに生きた人の心でもありましょう。
日本の最も古い歌物語集、短篇小説とも見られる話を多く含む「伊勢物語」のなかに、

なさけある人にて、かめに花をさせり。その花のなかにあやしき藤の花ありけり。花のしなひ、三尺六寸ばかりなむありける。

という、在原行平が客を招くのに花を生けた話があります。
花房が三尺六寸も垂れた藤とは、いかにもあやしく、ほんとうかと疑うほどですが、私はこの藤の花に平安文化の象徴を感じることがあります。

藤の花は日本風にそして女性的に優雅、垂れて咲いて、そよ風にもゆらぐ風情は、なよやか、つつましやか、やわらかで、初夏のみどりのなかに見えかくれで、もののあわれに通うようですが、その花房が三尺六寸となると、異様な華麗でありましょう。

唐の文化の吸収がよく日本風に消化されて、およそ千年前に華麗な平安文化を生み、日本の美を確立しましたのは「あやしき藤の似た、異様な奇蹟とも思われます。
歌では初めての勅撰和歌集の「古今集」、小説では「伊勢物語」、紫式部の「源氏物語」、清少納言の「枕草子」など、日本の古典文学の至上の名作が現れまして、日本の美の伝統をつくり、八百年間ほどの後代の文学に影響をおよぼすというよりも、支配したのでありました。

殊に「源氏物語」は古今を通じて、日本の最高の小説で、現代にもこれに及ぶ小説はまだなく、十世紀にこのように近代的でもある長篇小説が書かれたのは、世界の奇蹟として、海外にも広く知られています。

少年の私が古語をよく分らぬながら読みましたのも、この平安文学の古典が多く、なかでも「源氏物語」が心におのずからしみこんでいると思います。
「源氏物語」の後、日本の小説はこの名作へのあこがれ、そして真似や作り変えが、幾百年も続いたのでありました。

和歌は勿論、美術工芸から造園にまで「源氏物語」は深く広く、美の糧となり続けたのであります。
紫式部や清少納言、また和泉式部や赤染衛門などの名歌人もみな宮仕えの女性でした。
平安文化一般が宮廷のそれであり、女性的であるわけです。

「源氏物語」や「枕草子」の時は、この文化の最盛期、つまり爛熟の絶頂から願廃に傾きかける時で、すでに栄華極まった果ての哀愁がただよっていますが、日本の王朝文化の満開がここに見られます。

やがて王朝は弱まって政権も公卿から武士に移って、鎌倉時代となり、武家の政治が明治元年まで、おおよそ七百年つづきます。
しかし、天皇制も王朝文化も滅び去ったわけではなく、鎌倉初期の勅撰和歌集「新古今集」は、平安の「古今集」の技巧的な歌法をさらに進めて、言葉遊びの弊もありますが、妖艶・幽玄・余情を重んじ、感覚の幻想を加え、近代的な象徴詩に通うのであります。

西行法師は、この二つの時代、平安と鎌倉とをつなぐ代表的歌人でした。

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ
夢と知りせば覚めざらましを

夢路には足を休めず通へども
現に一目見しごとはあらず

など「古今集」の小野小町の歌は、夢の歌でもまだ率直に現実的ですが、それから「新古今集」を経たのち、さらに微妙となった写生

群雀声する竹にうつる日の
影こそ秋の色になりぬれ

萩散る庭の秋風身にしみて
夕日の影ぞ璧に消えゆく

など、鎌倉末の永福門院のお歌は、日本の繊細な哀愁の象徴で、私により多く近いと感じられます。
「冬雪さえて冷しかりけり」の歌の道元禅師や、「われにともなふ冬の月」の歌の明恵上人は、ほぼ「新古今集」の時代の人でした。
明恵は西行と歌の贈答をし、歌物語もしています。

西行法師常に来りて物語りして言はく、我が歌を読むは遥かに尋常に異なり。
花、ほととぎす、月、雪、すべて万物の興に向ひても、およそあらゆる相これ虚妄なること、眼に遮り、耳に満てり。

また読み出すところの言句は皆これ真言にあらずや。
花を読めども実に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月と思はず。
ただこの如くして、縁に随ひ、興に随ひ、読みおくところなり。

紅虹たなびけば虚空色どれるに似たり。白日かがやけば虚空明かなるに似たり。
しかれども、虚空は本明らかなるものにもあらず。また、色どれる物にもあらず。
我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情を色どるといへども更に厳跡なし。この歌即ち是れ如来の真の形体なり。
(弟子喜海の「明恵伝」より)

日本、あるいは東洋の「虚空」、無はここにも言いあてられています。
私の作品を虚無と言う評家がありますが、西洋流のニヒリズムという言葉はあてはまりません。
心の根本がちがうと思っています。
道元の四季の歌も「本来ノ面目」と題されておりますが、四季の美を歌いながら、実は強く禅に通じたものでしょう。

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